頑張る人の物語

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第7回 『 プロになる

 このようにして益々成長していった中野は87年、香港にて開催された国際カートGPにて優勝をする。世界中からカートの代表選手が参戦していた。中野は若干16歳での参戦で、もちろん参加者中で一番若い年齢だった。日本人としてこの大会で優勝するのは彼が初めてであり、また大会最年少の記録であった。父も喜んでくれた。そして何よりも負けず嫌いな性格の本人がこの瞬間に世界一になれたことへの喜びはとてつもないものがあった。

 多くのレース関係者が中野を認め、褒め称えた。しかし、そんな中野は学校では浮いた存在だった。群れを成す性格ではない。またレースという特殊なことをしており、ルックスも悪くないので女子にももてた。やっかむ同級生がいて当然の話だった。机や校門には落書きはされるし、下駄箱もよく潰される。喧嘩も日常的に売られた。

 しかし、多くの高校生が学校生活だけが人生の大半であるのに対して、中野信治には別の人生があった。学校で浮いている事は特に彼にとって苦にはならなかった。レースの世界で一番になれればいい。そうした事を考え、トレーニングなどを毎日行っていた。友達とどこか遊びに行くことなどは全くせず、ただトレーニングジムとサーキットが中野の生きる場だった。

 こうして練習を重ねる中野に、一つのいい知らせが舞い込んできた。それは、株式会社無限というエンジンメーカーからの提案で、無限が持っているチームのワークスドライバーにならないかという提案だった。ワークスドライバーというのはプロフェッショナルの専属ドライバーという意味であり、とても名誉なことだった。大抜擢であり、ステータスにもなった。この年齢でワークスドライバーとして検討されることだけでも当時では異例だった。ましてや選ばれるなどとは有り得ない話だった。

 この話を受けて、中野はもっと意識を高く持つようになった。そして、父親ももっと厳しくなった。しかし、継続的に力を発揮できるレーサーとして外部的な評価を得ることができたことは中野にとっても父親にとっても名誉なことだった。

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