頑張る人の物語

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第8回 『 F3への転向

 こうしてしばらくカートの選手として好成績をおさめていった。そして18歳になると全日本F3に選手へと転向をする。カートには免許がいらないので18歳未満でも運転が可能である。しかし、四輪のレースは18歳以上で無いと運転が出来ない。中野は免許を取るとすぐにより大きな世界が待ち受けているF3へと転向を希望したのだ。

 実際、サーキット場は大きかった。カートを始めた時もカートのレース場が大きく感じた。そして、子供用のヘルメットなど無かったので、最初はヘルメットが大きくて、また重苦しくて苦しかったのを覚えている。しかし、今度走ることになったサーキット場は文字通り大きかった。

 また、カートとは違い、ギアもついているし車の大きさも全く違う。運転方法なども異なるものがあった。中野はまた父親からアドバイスを受け、このF3というレースに挑戦をしていった。このサーキット場が父、常治が走っていた舞台であり、その夢を諦めることになった舞台であった。父も息子である信治を応援するために8年ぶりにサーキット場へと足を踏み入れることとなった。

 この頃、また中野は父親を尊敬する出来事があった。F3に参戦するにあたって、より多くの資金が必要になったことから中野も父と一緒に内装工事の現場仕事をするようになった。朝の5時から夜の12時まで仕事は続く。

  こんな仕事を毎日、10年間以上やってきたのかと改めて中野は父親を見直した。そして、この人が託してくれた夢を自分が絶対に実現させたいと堅く思うようになっていた。

 F3の選手となり、最初にあてがわれたマシンは旧型のものであった。レースはドライバーのスキルだけで勝てるものではない。ドライバーのスキルとメンタリティ、チームとの相性、マシンやエンジンの性能・整備具合など様々な要素が完璧に絡み合った時にはじめて勝つことができる。この時、無限の人からは「敢えて苦労をしてみろ」という意味合いも込めて、性能の劣るマシンを使うように言われた。

 今まで1位か2位かしか考えていなかった中野だったが、F3では6位が最高だった。勝ち目の無い環境ではあった。しかし、勝てなかったのは恐らくマシンの性能のせいだけではなかっただろう。

 この頃、中野はチームとのコミュニケーションをそこまで意識していなかった。レース競技の選手はドライバーだけではない。マシンを整備し、最高のコンディションで参戦させてくれるメカニックなどチームの人達もまた同じ優勝を目指す選手だ。

どんなにいいドライバーでもチームとの相性が悪ければ勝つことが出来ない。武力がどんなに高くても軍師がいない部隊が弱いのと同じことだ。チームとのコミュニケーションの必要性は後になって中野は気づくが、この時はそこまで意識は高くなかった。このこともおそらく上位入賞への壁を乗り越えられない理由だったのだろう。だが、もちろん当時あてがわれたマシンでも6位になるというのは凄いことではあった。

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