頑張る人の物語

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第11回 『 日本での挫折

 話が少しそれたが、こうした中野の意識はこのイギリス滞在中にほとんどが養われた。そして、2年後に再び中野は日本にてレースをすることとなった。

 92年に日本に帰国すると、中野は全日本F3000選手権と全日本F3選手権にダブルエントリーをする。2つの大きなレースにダブルエントリーというのは無謀なことだ。レースは体力的にも精神的にも過酷なものだ。これを1度に2つ行うのは正直な話、考えられない。しかし、これは中野のことを評価していた周囲関係者の意向だった。

 英国で好成績を残してきた中野に対する期待は高かった。しかし、ダブルエントリーという事だけでなく、この時中野に対して提供されたマシンは操縦性が決していい物とは言えなかった。そして、この事をチームの人達に伝えても、もともと期待が高かったせいか言い訳ととられ、勝てないのは「中野に力が無いからだ」と言われるようになってしまう。

  そして、勝ちたいと思う気持ちと、結果に結びつかないジレンマの中で中野は何とドライバーとしてのシートを無くすこととなってしまう。

 シートが無くなるということは、会社を辞めさせられることと同じことだ。今まで日本そして海外でトップレーサーとして走ってきた中野はいきなり下まで突き落とされた。この時点で一時はレーシングドライバーとして今後もやっていくべきかという事を中野は悩んだ。しかし、答えはすぐに決まった。

 「やるしかない!!」

 丁度、他のチームがドライバーオーディションをするということを聞いたので中野は自らオーディションに参加した。それまで敷かれたレースの上を順調に走ってきた中野にとって、それは初めての経験だった。

  そのテスト走行で中野は驚異的な記録を出した。そのチームのメカニック達は皆、中野の実力を心の底から評価し、その実力を認めた。しかし、このオーディションにより中野信治の実力を確認できたのは、ほかでも無い中野自身だった。

 「やはり自分には出来る」

 多少、先年のレース成績に不満を感じており、レーシングドライバーとして自分の能力を考えたこともあった。しかし、今回の走行でいい成績が残せたことは中野にとって大きな自信になった。実際にこの時に参戦したほとんどのレースで中野は表彰台に乗ることができるようになった。

 こうした中野の実力が認められ、チームでは童夢、スポンサーではAVEXとの新しい出会いもあり、チーム、スポンサー共に今までの中では最高の布陣が整いつつあった。

 ここで一つ、偶然に偶然が重なった。この年起きた阪神大震災の影響で、童夢が利用していた大手タイヤメーカーの工場が機能しなくなり、最初考えていたマシンやドライバーの体制を変更する必要が出てきた。

  最初、中野のシートは童夢チームになかったが、株式会社無限の本田博俊社長の後押しと新しいスポンサーとの偶然の出会いがあり、シートを急遽確保できるようになった。チームがあり、スポンサーがいても試合に出られるとは限らないのだが、体制の変更が中野にとって有利に働いたのだ。

 もちろん、多くの死傷者が出た震災がきっかけとなって道が開かれる形となった事を中野は素直に喜ぶ事は出来なかった。だが、中野はこの時強く思った。

 「チャンスっていうのはいつ来るか分からない。大切なのは諦めないこと。信じること。そして誰よりも努力を続けること。」

中野がこの参戦の報告を受けたのは、いつかマシンに乗れる事を信じてトレーニングを続けていたジムでだった。

 何があっても諦めてはだめだ。また、今回はたまたま自分にとってはチャンスとなったが、今後いつでも逆の状況だって想定される。そうした時に備えて常に自らをコントロールし、高い意識を平常時から持っておかなくてはならないとさらに中野は意識を強くした。

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